私はコメントで恋をする

”中の人などいない!” ってのはネタでよく使われますが、こうして朝も昼もネットばっかして
星の数ほどのブログを読んでると、”中に人がいる”という現実をつい忘れがちです。
一応頭では理解してるんだけど、実感として意外と分かってない。


だいぶ昔の話になりますが、うちのママンは紅がメッセで友達と話してたら
「あれ、このぱそこん自動で返事かえしてくれんのけ!すごいねぇー!」って感心してました。
んなわけねぇだろ!って思うけど、そのときふと、ありえないとも言い切れない、なぁんて思ったわけです。


使い古された表現だけど、コンピュータなんてタダの箱じゃあないですか。
”コギト エルゴ スム”とはデカルトの言葉ですが、いまこれを書いてる紅は確かに実在の人間だけど、果たして他のブログ管理人は実在するのか?
実在、って表現はまぁ大げさだけど、舞台裏の素顔がぜんぜん想像できない。
それが素晴らしい内容であればあるほど、存在が嘘っぽく思えてくる。
ブラウン管の向こうの”プロっぽさ”を感じてしまうのです。
現実味はブラウン管の向こうの人より希薄かもしれませんね。
TVの人たちはちゃんと動いて喋ってるけど、ブログ管理人たちの顔や声は分からない場合がほとんどです。
トゥルーマン・ショーみたいに、実はこの箱に踊らされてるんじゃないかしら??


だいたい、フォントが画一的なのがまず良くない。手書きならまだ温度を感じるかも。
サイトデザインも、あまりかっこよくないほうがいい。
たまにしょぼいホームページを見つけると親近感わくもんね。
こりゃー殿堂入りだな、って思うような素晴らしいエントリを、ごくごくフツーの一般人が
試行錯誤しつつ繰り出してるという事実を、改めてふと考えるときがあります。
そしてそういうとき、”この人はどんな人なのかな?”って興味を持つ。
でもねー、自分とは全然違う世界にいる気がして、トラバ打つのも恐れ多いんですよ。
ましてやその人のブログにコメント残すなんて、酒でも呷らなきゃ出来ないっつうの!


アタマにアルファーがつくような方々、アルファブロガーとかアルファブックマーカーとか、
そういう人たちは特にそう。
ブロゴスフィア事情には疎いけど、404 Blogの人とかkanoseさんとかえッけんさん(←ッのあたり腰が引けている)とか、あのへんの人たちはたぶんベルサイユ宮殿にいると思う。
無断リンクどーのこーのの件も、「文句があるならベルサイユにいらっしゃい!」と言ってるように見えたし。
というのはもちろん嘘です。心にもないことを書きました。あとで切腹します。


ブログの読者にしてもそう。
リファラーを見て、何百、何千という数字を見てもさっぱりピンと来ない。
それだけの人数の、感情をもった生身の人間が自分の書いた文章を読んだという現実が
自分の中であっさり処理されてることが怖い。
だってそれだけいたら学校作れますよ、学校。
学校がひとつあったら、どれだけ意見分かれると思ってるんですか。
しかもブログの読者は年齢層も職業もなにもかもバラバラ。
学校の生徒よりバリエーション豊か。
数字だけ見て一喜一憂してる場合じゃない。これは単なる数字の評価じゃない。
このテキストによって、それだけの数の感情が何かしらの動きを見せたはずなんです。
そのことは絶対に忘れちゃいけないと思う。


だからブログにコメントをもらったり、はてブでも良いんですけど、
なにかしらの反応があるとすごく嬉しい。感動的でさえある。
言葉にするとばかみたいだけど、”あ、このひと人間なんだ!”って思うんです。
いつもスキがなく完成されたエントリを書く人が、コメント欄では素顔を見せることがある。
ものすごくくだらないことを言ってたり、ギャップがあればあるほどテンション上がりますよね。
単なる数字だった読者が、実体を持って自分に話しかけてくれてる。
それだけでもうフラグです。なにこの気持ち。これが恋?


そうそう。
誰かに対してやたらキレてるエントリとか、支離滅裂だけど何かを強く訴えてる文章に惹かれるのは、そこに人間臭さを感じるからかもなぁーって思いました。




#全く読む必要の無いおまけ
メッセって危ないよね!年がら年中同じ人とメッセしてると好きになっちゃいません?
以前ネトゲで会った人と朝から晩までメッセしてて、「やだこの人のことちょっと好きかも?」
なんてトチ狂って、Yahoo!知恵袋で「ネトゲで会った人を好きになってしまいました!どうすればいいですか><」って質問したら、「行動あるのみです。そこからまた新しいゲームが始まるかもしれませんよ」という回答をいただきました。
誰がうまいこと言えとry